全国抗戦の日から79年:不朽の叙事詩を受け継いで

全国抗戦の日(1946年12月19日―2025年)から79年が過ぎましたが、首都ハノイの軍民に刻まれた英雄的な記憶はいまなお鮮明に語り継がれています。60日間に及ぶ激闘は、不滅の叙事詩として今日の国家建設と発展の原動力となっています。

1946年12月、全国的な抗戦運動初期にハノイの兵士と市民が街頭で戦う様子(写真:VNA)
1946年12月、全国的な抗戦運動初期にハノイの兵士と市民が街頭で戦う様子(写真:VNA)

この時期、ハノイ市ハドン区のバンフックシルク村にある小さな家には、抗戦の歴史を学ぼうと多くの人々が訪れています。ここは、ホー・チ・ミン主席が「全国抗戦の呼びかけ」を起草した場所です。

1946年末、フランス植民地軍に対する抗戦準備が緊迫する中、ホー・チ・ミン主席は1946年12月3日から19日まで、グエン・ヴァン・ズオン氏の自宅に滞在し、ここで執務を行いました。

この期間、主席は党および政府の指導者たちと共に、重要な革命課題の解決について協議しました。

この家では、1946年12月18日と19日にホー・チ・ミン主席が中央常務委員会の拡大会議を開催し、全国的なフランス植民地侵略への抗戦運動を開始しました。

小さな門をくぐると、簡素ながらも厳かな空間が広がります。ホー・チ・ミン主席が滞在していた当時の遺品として、カーキ色の上着、銅製の洗面器、日常的に使っていたダンベルなどが今も保存されています。また、家主であるグエン・ヴァン・ズオン氏一家について紹介する展示スペースも設けられています。一家はこの家を国家に寄贈し、歴史資料の保存・展示施設として活用されることになりました。

2階には、ホー・チ・ミン主席の生活と執務していた当時の空間を再現した展示があります。左側の12平方メートルにも満たない小部屋には、主席が使用していた質素な木製の寝台と赤く塗られた木製の枕が残されています。寝台の横には手すり付きの机が置かれ、その上にはオイルランプと「全国抗戦の呼びかけ」の原稿が展示されています。79年という歴史の激動を経ても、主席がこの呼びかけを執筆した部屋は当時のまま良好に保存されています。

2度目の訪問となるファム・ヴァン・ハイさん(75歳、ニンビン省出身)は、「バンフックのホー・チ・ミン記念館で、私は主席の温かさ、質素さ、謙虚さを感じた。祖国の独立と自由のために倒れた同志たちのことを思い出す。こうした場所こそ、若い世代に革命の伝統を伝える最良の教育の場だ」と感慨深げに語りました。

ホー・チ・ミン主席の呼びかけに応え、愛国心と祖国防衛の決意に突き動かされたハノイの軍民は、フランス侵略軍との生死を懸けた戦いに身を投じました。ハノイは、全国抗戦初期の主戦場となりました。

ホアン・ジエウ救国青年同盟の初期メンバーであるレー・ドゥック・ヴァン氏にりますと、1946年10月にはすでにハノイ市民の避難が始まり、若者、志願者、警察、兵士、士官候補生だけが残されました。塹壕の掘削や家屋をつなぐ壁の破壊は昼夜を問わず行われ、各地域には武器庫、補給拠点、救護所が設けられました。軍事技術、応急処置、宣伝活動の短期講習も多くの地区で急遽開講されました。

1946年12月初旬、レー・ドゥック・ヴァン氏は第二区抗戦委員会で通信・暗号命令の伝達を担当し、14~15歳の士官候補生約10人の連絡班を率いました。

ヴァン氏は当時を振り返り、「当時、通信手段は非常に限られており、特別部隊だけが手回し式電話を装備していた。そのため、軍事機密保持のため、暗号化されたメッセージは数字で書かれ、連絡係の少年たちが作戦本部に届けていた。数字は特定の書籍のページや行番号を基に文字へ変換されていた」と述べました。

ハノイ防衛の60日間、ベトナム軍は秘密裏に戦闘陣地や塹壕を掘り、障害物やバリケードを市門や通りに設置して敵の機械化部隊の進撃を阻止しました。1944年に革命に参加したグエン・ティエン・ハー氏(ホアン・ジエウ救国青年同盟)は、全国的な抵抗が始まるとすぐに志願して軍に加わりました。98歳となった今も、軍服で初めて戦ったバクマイのオーカウゼンの決戦の英雄的瞬間を鮮明に覚えているといいます。

困難ながらも誇り高い時代を振り返り、グエン・ティエン・ハー氏は、「ハノイ戦区は第1、第2、第3の3つの区域に分かれ、連続した戦闘陣形を形成していた。各区の任務は、敵の戦力を消耗させ、フランス軍の前線拡大を阻止することだった」、

そして、「武装部隊と自衛隊は、ライフル、手榴弾、三叉爆弾、山刀、ナイフ、剣を手に、陣地や障害物を築き、敵の攻撃を絶えず撃退した。当時、私は第2戦区所属のバクマイ自衛隊に参加していた」と述べました。

オーカウゼンの陣地では、1946年12月20日から1947年1月17日まで激しい戦闘が繰り広げられ、敵はオーカウゼンや第2戦区のマイハクデー交差点、タイフィエン交差点、フエ通り、ダイコービエット、ベトナム学院などに大規模な攻撃を仕掛けました。ホム市場の戦いでは、ベトナム兵士たちが三叉爆弾を抱えて敵戦車に突撃しました。

ドンタイン地区では、ライフル部隊がフランス軍機を撃墜しました。ベトナム軍と市民は敵の攻撃を食い止め撃退し、この勇敢な精神は敵に恐怖を与えました。ハノイの兵士たちはオーカウゼン防衛線を象徴に、不屈の精神で21日間(1946年12月25日~1947年1月15日)敵を食い止め、フランス植民地主義者の「電撃戦・速勝」計画を挫折させ、首都ハノイ防衛の60日間の総合的勝利に貢献しました。

ホアンキエム区青年同盟書記のダン・タイン・トゥ氏によりますと、首都の革命伝統が息づくホアンキエム区の若者にとって、この歴史はより身近で誇りの源となっているといいます。1945年8月の総蜂起で中核となったハノイ自衛部隊たち、全国抗戦初期に勇敢に戦った首都連隊の初代兵士たち(政治委員レー・ザ・ディン氏やホンハーゲリラ隊長グエン・ゴック・ナイ氏)、そしてアメリカへの抗戦運動で学業を脇に置いて祖国の独立と自由のために犠牲をいとわなかった何万人ものホアンキエムの若者たちの姿がその象徴です。

「これらの模範は単なる歴史ではなく、今日の若者たちが学び、働き、貢献する意識と責任を高め、より文明的で豊かで美しいハノイを共に築くための原動力となっている」とダン・タイン・トゥ氏は語りました。

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